昭和44年06月20日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 神参りをするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬと。えらいと思うてはならぬとこう仰るのですから、ここんところを人が雨が降っても風が吹いても、それを有り難いまたは楽しい、または嬉しい喜ばしいと言った様な心で、そこを辛抱出来れる道を、ひとつお互い体得しなければならない事が分かります。えらいと思うてはならんとこう仰る。はぁこの雨が降るのにこの風が吹くのに、この暑いのに寒いのに、どうして参らんならんのじゃろうかと、言った様な事ではいけないと。
 それではいけんとこう仰る。ですからそういう例えば雨であろうが風であろうが、そういう中に楽しいお参りの仕方というか、また受け方とかそれを又は有り難く受けれる受け方を体得しなければ、それを体得しなければしかもそこを行じて行かなければ、身に徳が受けられないと言う事が分かります。その辛抱こそですそこん所をです。その辛抱こそ身に徳を受ける信心。有り難いと思いそこをやはり修行し続ける。そこに身に徳を受ける修行じゃということになる。
 それが身に徳を受ける修行。そこでまぁそこんところをよくよく分からせてもらうと、合楽ではここんところを非常に強調して、何時も話をしておるように思うのですね。いわば雨が降っても濡れんで済む信心。風が吹いても折れんで済む信心。雨もまた楽しい。風もまた今迄無かった元気な心が沸いて来る。と言った様にですね、所を合楽では特に強調しておると私は思うのです。皆んなそうですよね。私方の家内じゃないですけれど、先日見事な雨傘を頂いたんです。
 本当にならねところが中々そのうあのう出る、あのう出る事がないもんですから使えない。いっぺんそのう使こうてみたい訳ですね。子供と同んなじです。この頃からレインコートも出来る事になっている、しかもそのレインコートを着て傘でもさして、どこか雨の中を出てみたい。もうむしろ雨が待たれるんですよ。楽しいんです。はぁこのレインコートを着てこのあのレインコートに、また神乍らにちゃんと色も合うとるし、これをさして行ったら気分も良かろうというのです。
 雨の中をまた気分良う楽しゅう行ける。そこでいかに例えば雨具の用意をしとかなければならんのかということが分かる。しかも最高な上等なのをですね。それをさしたり着たりする事楽しいぐらいな、レインコートやら雨傘を持っておるということは、私は雨を楽しくする事だと思うです。それこそ雨の歩道をレインコートを着て、雨傘をさしてそれこそコンクリートの上コンクリートですかねあのう絵。アスファルトの上をスタスタ歩いて行くのもね、なんとも言えんこう気持ちがいいもんだと思うんです。
 雨具が無いから破れた傘しか持たんから、雨靴を持たんから雨が降る日がしるしゅうなって来るんだと思います。風でもそうです。どんなに例えば強い風が吹いてもです、ものともせんと言った様なその、張り込んだもんでなくてですね、もう吹くなら吹かれようと言う気になる事。いわゆる柳に風折れなしという、それこそ柳が風に従ごうておるというところにです、折れんで済むおかげが受けられる。あの強い風にあの強い木が折れたけれども、なよなよしておる柳は全然折れてはいなかったという。
 私共信心をさせて頂いてね、思わせて頂く事には何時でもどんな時でも、御神意を対しての生活。いわゆる御神意のまにまに動かせて頂く私共。いわゆるどんな場合でも神様任せにさえなっておけばという信念がです、どんな風が吹いても私は恐れんで済む、折れんで済むおかげが受けられるということをです、体験し分からせて頂いたら私は成る程、雨も風もえらいと思わんで済むだろうとこう思うですね。いよいよん時にゃ親先生任せになるんだと、ほかで親先生任せになって。
 だからおかげを受ける体験というものを積んでおかなければならん。そこにはむしろ氏子が神様任せなら、神様の方が氏子任せになると仰せられますから、と言った様なおかげを現していかねばばらない。それと少し意味が違うかも知れませんけれども。昨日は合楽会でございました十九日。夜の御祈念のもう始まるというのに、合楽の人がひとぉりも見えてなかった。それで私は第一思いましたですね。必ず総代さん方がずうっとこうお届けなさいます中に。
 必ず今日一日の信者一同の事だけじゃなくして、教会での行事の事なんかについてのお届けもある。非常にそれを私は心強いもの有り難いものと、お取り次ぎの働きが知っておるから思われるのです。ところが昨日合楽会のお届けがあってなかった。私もうっかりしていた。昨日は少年少女会な方達の何か集うておりましたけれど、あそこは今日合楽会があるのが出来んぞと若先生が言いよりますもん。はぁほんに今日合楽会じゃったていと思うて、なんか子供達はこれの二階でやって。
 それでまぁ合楽会は共励殿でとこう思っておりましたけれども。その中に御祈念の時間になっても一人もみえんもんですから、もう御祈念させてもらう。それでまぁ本当に私の不行き届きの事で、まぁこういうことで相い済みませんという思いで、神様にお礼やらお詫びをさせて頂いておりましたら、こんな大ぉきな壷ですよね。それにあのう夏咲きますあのカンナという花がありましょうが、大きな青い葉のやつね。カンナの花私はあのうカンナの花というのは大変好きです。
 そのカンナの花をです大きな壷に入れてあるところ。しかもあの青い葉をですね、こう曲げたり又は折ったりしてですね、あれはお花をなさる方はご承知でしょうけれども、あやめなんかをね、入れます時にはやっぱり葉を折ったりなんかしますね。かえってそのうひとつ風情を造る訳なんですよ。いわゆるカンナをすぽんとこう入れただけじゃなくて、そのカンナを葉を曲げたりまた折ったりして、格好の良いカンナを大きな壷に一杯生けてあるところを頂いた。
 例えば今日合楽会の方達が一人も集まって来てない。これは神様のやっぱり御都合だと。曲げてあるんだ折ってあるんだとこう思ったんです。そして私は思うたですね、これはあのう本当に教導する、教導するのも教導させて頂くということの、この難しさと言った様な事ですねぇいうならば。人にものを教えると言った様な事が、あぁこりゃもう頭が悪いけん駄目だとか、もうこれは駄目だと教える者がこう思うたらもう駄目だということですね。例えばいうなら御信者の中でも。
 もうあの不熱心でもうあまり期待しとったけれども、もうあの信者はもう駄目だと、と言うたらそこに本当に駄目になってしまうけれども。それが神様の御都合だと頂いたら、むしろ御礼申し上げる事になる。私共日常生活の中にもです、本当にどうも合点がいかない腑に落ちないと言った様な事もある。それはやっぱりあのう今日のように、雨が降ってはならん筈なのに、今日のように風が吹いては大体ならん筈だけれど、ちゃんとお願いしてあるのにと、例えば言った様な事もあろうかと思うんですね。
 日常の生活の中に。いわば思いとは反対な事になる。そういう時に私はこうそれを、ここでは楽しゅう事か嬉しい事で、それを神様の御都合として有り難く受けれる受け方。えらいと思うてはならんと、と言う所はそれをね不足に思うてはならん、困った事にしてはならない。それは神様の御都合に違いないと祈らねばならん。御祈念を終わらせて頂いておりましたら、何人かの方達が集まる。まぁ熱心な方達ばっかりが集まる。
 昨日は何時もあのう信心の大和さんとか、久富さん当たりが必ずみえた、宮崎さん達が必ずみえて合楽会に花を添えて下さるんですけれども。昨日は誰もみえてこなかった。久冨繁雄さんが一人おみえておるだけでした。それですからもうそれはもっつらとしたきもちでしたね。中村さんそれから会長の中村せいじさん、それに久冨繁雄さん、それに私の五人。ないらった様な会がなって初めて。合楽会は非常に何と言うですかね、そのう例えば信心話が出てから。
 もう時間が経つのも忘れるくらいに、何時もあるんですけれど、同でも一つ聞いてみてらあれはどうした御都合であったか、こうであったかじゃろうと色々な都合があってからね。いわゆる山田さんとか久富さんあたりまでみえてないと言う様な訳です。それで私はもうなら今日も共励する必要ないから、私の控えでやりましょうかと言うて、まぁ控えでやらしてもらった。もうやがて十二時頃だったでしょうか。こっちはもう全然耳が遠いから分かりませんけれども、中村さんが電話が掛よるごたるですよちゅう。
 それから久富さんが行かれました。電話が掛かって来た公子さんに広島から電話が掛かって来とる。一番口々にね親先生助けて下さいと言う事だった。ちょうど親戚の方がね急にその倒れたって言うてから、もう難しかろうごたる状態だ。それがそのう電話かけたらしいけどやっぱしけど、聞こえんですうちかたの控室には、そのうそれをまぁそのう聞き取って2辺掛ってきました。そのうほうとても普通の日だったら、絶対ここにおりもしませんしね。やんがて十二時頃ですから。
 今日はこりゃおかげ頂くよと私は申しました。三度もこちらから電話をまた公子さんがかけたそうですが、その時だいぶんおかげ頂いたということでしたが。私は合楽会に出て申しました。今日はもう合楽会の方達が集まらんで小人数であったおかげで、人の命が助かりよったと私は申しました。もし共励殿じゃったらこりゃどんなに身内の者じゃって、聞こえやしませんよ。ここに控えさせておったおかげでです、そういうお取次ぎもさせて頂く事が出来た。
 私はそこん所からですね、今日の「神参りをするのに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と。もうここはもうそれこそどれ位あらゆる角度から頂いた事か分かりませんけれども、今日今頂いております頂き方は初めてですね。その辛抱こそ身に徳を受ける修行と言う事には、そこにはえらいと思うてはならんと言う事なんです。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。そこで雨に降っても濡れんで済むね素晴らしいレインコートを求めなさい。
 素晴らしいそのう傘を求めておきなさい。とこう言うのです。雨が待ち遠しい程いっぺんこれを着てみたい、いっぺんこれをさしてみたいと、そういう楽しみすらここには必要であると説いてあるのですね。風が吹いてもそうなんです。どんな風が吹いて来てもです堅い木が折れても、柔い柳のいわゆる風に逆らわない柳は折れっこがないです。ようもあんな風に吹き折れなっかったと柳だけが言えれる。それは柳のような素直な、いわゆる神様任せになられる。親先生任せになられる。
 どんな場合でも任せられる心というものを、育てておきさえすれば、風が吹いても折れんで済むということが言えれる。そこでならえらいと思うどころではない。それが有り難いのであり、楽しいのであり喜ばしいのである。そういう信心を身に付けておかなければね、またしかもその信心が辛抱されなければ、身に徳を受ける修行になってこないということ。信心のレインコートが揃うておるだろうか。信心の雨傘がちゃんと手元に何時も置いてあるであろうか。本当にいよいよ素直にならせて頂こう。
 柳のような素直さと言った様なものを求めての、信心であろうかということになるね。これは例えば日常の中に育てるということですよね。合楽会の事では少なかった。もうこれは合楽会はつまらんと、私はその時思うておったら、本当に合楽会は駄目になるだろう。ところがところがどうして、本当んいあなた方がそういう信心を頂いて行きようなさるなら、合楽会も合楽会じゃない、もう手元足元は大丈夫と言う様にです、もう熱心な本当に素晴らしいお話が出来てね。
 ちょうど一時ちょっと前まで、私が休ませて頂く時は一時過ぎでした。までもう時間の経つのも忘れて、そのたった五人でしたけれども、五人でお話しを致しました。しかもその事がですね、神様の成る程御都合であったなぁと、いわゆるカンナの花のお知らせを頂いたようにですね。なぜ折れておるか。なぜ今日はこんなに少ないか。なぜ折れておるか。わざわざ必ずわざわざ折ってあるのである。曲げてあるのである。それをどうして折れておるのであろうか。どうして曲げてあるのじゃろうかと。
 不平不足を言う事はない。はぁ神様の御都合ですねと言うて、有り難く受けていけれなければならん。ところをもう駄目だというところにです、もう本当に例えば駄目になっしまうだろうね。これは皆さんが信心の躾(しつけ)をなさるにもそうですよ。信心の躾は押し付けであってはならんと言われております。ところが信心を押し付ける。それを躾のように思う。私は最近しきりに思うのです。
 いわば黙って受けて黙って与えるという信心が、段々身に付いて参りましたらね、信心の躾というものは押し付けるもんじゃないって。やっと信心はこちらの信心の躾さえ出来て、自分自身の信心さえ出来て行けりゃあ、ちゃんと躾なければならん者には、躾をして下さる。そういう時にです、もうあの子は駄目だと言う様な頂き方を、例えば昨日いうてからまぁ合楽会の場合でも、合楽会はもうつまらんと私が思うなら、本当につまらんだろうけれどもです。
 神様の御都合として頂いて有り難い合楽会が持てて、しかもその事の成る程御都合であった事がもう目の前で分かった。もしこれが共励殿でしとったら、それこそどんなにじゃんじゃん広島から電話がかかって来ておっても、それを誰ぁれも受ける人がなかったであろう。しかも開口一番親先生助けて下さいと、言う様な大事な火急の願いであった。今日もここに私はぜんぜん耳が遠いから聞こえませんけども、そのう中村さんが電話ですよと、稔さんが受けられて始めてその大変な電話があった事が分かる。
 お取次ぎさせて頂いてこれはおかげを頂くよと。わざわざ神様はこういう演出、合楽会をいわば折ってからまでも曲げてからまでも、こう言う風にして下さっておる事実をです、私は昨日の合楽会の方達に成る程ですねそうですね、そうですねと、聞いて頂いた訳ですね。本当にここで信心の稽古するのは、ほんに生きたそこをそれをそこに見せてもろうて稽古させてもらうということは、こんな有り難いことはないと思うね。だからです例えばそう言う様な事もです。
 もうありゃ駄目とか切るとか言った様な事もあろうけれども、そこをです神様の御都合として有り難く受けるということはね、例えば雨でも風でもです、神様の御都合に違いないのです。今日降ってはいけん。今日あげん神様にお願いしとったのに、お天気にならず雨が降った。てなんてんいっちょ思う事は出けん。神様の御都合に違いないと、それを今度は嬉しゅう楽しゅうではなくて、それを有り難く受けられるという道を、ここでは稽古しておるのです。
 そしてその次ぎ分からせて頂く事は、成る程神様にはこういう御都合があった。合楽会にたとえ来ておられなくても、ここに一人の人が助かると言う様なお取次ぎをさせてもらはなければならなかった。成程今日人数が少なくならなければいけなかったんだ、ということが前後の事からそれを分からせてもらう事が出来ます。今日六十八節をそのよう風にうちは言っとられました。神参りをするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。と仰るのだから。えらいと思うてはならんきついと思うてはならん。
 どうしてじゃろうかと思うてはならん。それを嬉しゅう有り難う頂けれる頂き方があるんだと、または有り難く受けさせてもらう受ける事、すべてが日頃稽古させて頂いておるのだということを、ここん所を焦点においてお話しをさせて頂きましたが、その先の事を説明だけさせて頂きました。如何に有り難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。
 拝むにも大声を出したり、節をつけたりせんでも人にものを言う通りに拝め。と仰るのですから、そういう信心が段々と本当に出て来る、またでなからなければ本当の祈念はでけんとすら私は思います。私は4時の御祈念は全然柏手が無いでしょう。それは黙って先生眠っちゃるじゃないじゃろうかちゅごと、一時間あまりの間を御祈念させて頂いておる。それこそ人にものを言う通りに拝んでおる訳です。しかも言葉には出しておらん。心に思いよるだけ。それでも成る程神様が聞いて下さる事が分かります。
 だからそういうおかげを頂かせて頂くためにはね、これは例えばまぁあのう一時の御祈念があっおりますね、夏期信行になっております。だからこれは反対でしょう。大きな柏手を打って、もうそれこそもうジゴん出るごと大きな声を出して、大祓をあげておる。そういうことはいけないかと言うとそうではない。今日私がおかげを受けておるようなおかげを頂くための前提としてです。それこそ嘘から出た真である。あの一時の御祈念に、例えば新たな初めての方達が来てから。
 必ず申します昨日も合楽の人が話しておりましたがですね。あの御祈念を頂きよりますと涙が出て来るちゅうんです。昨日もあのう福岡の東さんが参って来ておりましたが、もう始から最後まで大祓があがらん位泣きました。あの皆んなで生懸命の姿に触れて。だから始から真があろうとは思われないけれども、一生懸命というものは有り難い。その一生懸命のものが、何時とはなしに一生懸命のものが真が出てくる。節をつけたりやはり例えば合楽で言うければ合楽節がやっぱある訳です。
 大阪の人は大阪の節がありますよね大祓でも。ひとつのリズムです。そのリズムに乗ってあの大祓のあげられる。私は朝の御祈念の時何時も思うのですけれども、皆んなが一生懸命まぁこう低音というか、こう大人の声であげておる中に、恵介君が一人このうキーと言う様な子供の声であげておるのが、もう実になんともいえんそのうリズム感というかね、その調和ですね。調和したもうあの人が大祓あげようらんと寂しいくらい最近感じるんですよ。ですから成る程これではいけんと言うのじゃない。
 そう言う事によって真が出る事の為に、元気が出る事の為になら、一生懸命の大祓をあげられなきゃ嘘だと。それこそ眠り半分で黙っておってなんちゅう、これはいよいよいけないのであって、それこそ眠気が醒めるように、それこそ横の人が聞きよってから感動するくらいな一生懸命なものが、御祈念には必要である事が分かりますね。ですからここんところをねまぁ今日もう柏手もまるきり忍びのごらっちゃいかん。というて打たんでも神様がちゃんと御神殿に座った途端に。
 神様の御扉を開いて下さる様なおかげを頂かにゃいかん。心の中に思うても神様がいちいち受け取って、しかもそれに対して御返事でも下さる様な、おかげを頂かないけん。必ずしも神様言葉でお祝詞言葉使わなければならん事はない。人に物を言う通りに言えと仰るからもの言う通りであっても、そこにはやっぱり順序というものがある。やっぱりそこには実意丁寧な、やはり言葉を使う事はこりゃ当然の事である。どげな風かいっちょ神様にいっちょおかげをくれんかい、ちゅうごたる風に言う訳訳にゃいかん。
 お前やどうしてこのごろぼやぁっとしたかたちゅう、神様にそげな風に言うたちゃいかんでしょうもんね。有り難うございますと、始めに神様をこっちに向けといて、そして実意丁寧にねそのう実はこうこうこうでございますからと。その訳を詳しく聞いてもろうて、聞いてもらわねばいけんのでしょうが。ですからここんところの後半の所は、そのような私の頂き方をさせて頂いて、本当の信心、御祈念の理想というのはですね、本当にこりゃまぁ私が出来ておるからと言う訳ではないけれども。
 私ももう以前もうそれこそ大きな御祈念頂きよると、聞いただけでおかげを頂きよりました。そのくらいに一生懸命でした。それも五巻十巻じゃありません。もうそれこそもう繰り返し繰り返し大祓でも奏上させて頂いたもんです。今私は大祓をあげた事がない。柏手打った事がない。ただ最後の所だけ打ちますけれどね。もうとにかくもう柏手打つ暇が無いくらい朝起きて座っています。そして私がもの言うのじゃ無い。心に思う感じるだけの事を、神様は全部受けて下さっておる。しかも御返事まで下さる。
 だからそれは教祖様がここに仰る、それはやっぱり御祈念の理想的な御祈念はそうですけれどもです。そのためにもやはり大祓もありゃ天津祝詞も拝詞もあるのでございますから、それをやはり一生懸命あげておる内に、真心がいわゆる嘘から出た真でも、真が出てくるのですから、そこんところをひとつ間違いないように、おかげ頂かなければならない。後半の所はまぁそういう説明をさせて頂きましたが、取分け今日の所をですね、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬという所を。
 今日は強調して聞いて頂いたんです。えらいと言うてはならんと言うことは、有り難いと思うてとか、楽しゅう思うてとかね、そういう例えば頂き方思い方を持って、その雨風にでも向こうて行けれる、それが徳を受ける修行と仰るのでございますからね。はぁこの雨降りに参らんならんのじゃろかと言った様な事では、辛抱してもそれは徳にゃならんということになる訳。えらいと思うてはならんとおしゃるのですから。
   どうぞ。